大学1年生の5月頃から10月終わり頃まで川崎市の高津区に住んでいたことがある。先に上京し働いていた姉との同居だったが、この秋に結婚が決まっていて式が終わったらここで新婚生活が始まることになっていたので、僕的には半分居候的な住まいだった。
川崎市ではあるが渋谷へのアクセスが良く、田園都市線で多摩川を渡って4つ目の梶ヶ谷駅。「谷」が駅名に付くくらいなので、駅を出てアパートに向かうには結構な坂を下っていく。改札を出て右へ進みすぐの信号を渡ると下り坂が始まる。左手には線路が見え右手にはマンションが建っている。どんどん下っていくのでマンションも建っているからそびえ建っている感じに変わってくる。一軒家も多いのだけどマンションも多い。坂の下からマンションを見上げるので実際の高さよりも高く感じる。
もちろん下ったら、逆に電車に乗るためには上っていかなければならないわけで、引越しをして間もなく始めたアルバイトに行くため、毎朝歩くだけでも十分な運動だった。
そのアルバイトは駅構内の掲示板に手書きの募集広告が掲示されていた。通勤ラッシュ時のホーム要員で場所は隣の溝の口駅。労働時間は1時間。時給は1700円だった。早速申し込んで翌日から働かせてもらった。朝7時頃からの勤務だったので起きるのは辛かったが、こんなに時給が高いバイトはなかなかない。
朝の通勤時間は電車が混む。異常に混む。ホームには人があふれ、ドアが閉まっても乗り切れなくて、何人もの人が挟まれた状態になることがよくある。だから円滑に乗降を進めるのが仕事だった。
上りのホームには駅員はもちろんいるのだけど、アルバイトが等間隔で10人程度立ち、マイクを持って構内放送をしたり、階段付近の混み合うドア口では電車の中に人を押し込んだりしていた。ベルが鳴ってドアが閉まり速やかに発車しないと電車が遅れてしまう。だからバイトは自分の近くのドアが無事に閉まったらまだ人が挟まっているドアへ走り、中へ押し込むか諦めさせるかと走り回っていた。
ピークの7時半頃から8時頃はものすごい人だつた。渋谷に直結している人気の路線で、多摩川を越えているから地価も下がるし、南北に走るJR南武線と連結しているから当然なのだろうけど、次から次へと階段を上ってくる。さっき電車が出たばかりなのに、ホームには大勢の人が次の電車を待っている。通勤ってホント大変だなとしみじみ思った。
でもこのアルバイトは慣れてくると楽しかったし、制服を借りていたので本物の駅員の様になっていたのも面白かった。深いグリーンの帽子にジャケットとパンツ、白いシャツにえんじ色のネクタイというユニフォーム。辞めるときには送別会をしていただき、記念に使用していた帽子とネクタイをくれた。そのネクタイは今もクローゼットの中で他のネクタイと一緒にぶら下がっている。
通勤で混まない日曜日はバイトに出番はないので当然休み。一段と日差しがきつくなり、少し出歩くと喉が渇いてしまうような季節になったある日、いつもとは違うルートで坂を上り、駅の反対側にあるコーヒー屋にアイスコーヒーを飲みに行った。名前はコロラドコーヒー。前面がガラス張りで店内は明るく、コーヒーの樽が何個も飾りとしてレイアウトされていて、いかにもコーヒー屋らしく座っているだけでも気分が良かった。
注文したアイスコーヒーが運ばれて来た?と思った。ウェイトレスさんの片手はトレーを持ち、その上に銀色のコーヒー樽の形をしたカップが乗せられ、もう片方の手にはサイフォンでいれた珈琲を持っている。ホット?別の客?どういうことだ?顔の表情は変えないようにせわしなく思いを巡らせていたら僕のテーブルにやって来た。
目の前にシルバーのカップが置かれたので見てみると、中には細かい氷がたっぷりと入っている。するとウェイトレスさんがその氷の中にサイフォンコーヒーを一気に注いだ!アイスコーヒーというのは作っておいたアイスコーヒーを普通の大きさの四角い氷の入ったグラスに入れて完成なんじゃないのか?なんの前置きもなく突然目の前でアイスコーヒーを作られて、メチャクチャ興奮した。
ストローでかき混ぜ飲んでみた。すっごく美味しかった。ホットコーヒーがそのまま冷たくなっていた。コクも酸味もしっかりあって、口の中からふわっと匂いが広がってくる。アイスコーヒーの常識を完全に覆された。これまでの美味しい美味しいと言って飲んでいた200円アイスコーヒーはなんだったんだ!ムムムこれが本物かと感動して、一口飲んではもっと味を確かめたくて、次の一口次の一口と、結局ゴクゴクとあっという間に飲み干してしまった。アイスコーヒーの飲み方はこれだなと決定した。
値段設定が高めだったのでそう行くことはなかったが、記憶にははっきりと刻まれていて、30年経ってもあの衝撃と感動は覚えている。自分でアイスコーヒーを作るときも同じやり方で、容器は大きいグラスだけど中に小さい氷をたくさん入れてよく冷やし、そこへ濃い目に抽出したホット珈琲を一気に注ぎ、ストローでガシャガシャとかき混ぜ、ストローは使わずグラスから直接ゴクゴクと飲む。舌では珈琲を味わいながら、口や鼻の周辺には珈琲の香りが広がっていく。氷点下の喉越しで、真夏のうだるような暑さも瞬間的に涼しく爽やかな空気に変えてしまうこの飲み方が最高に好きだ。
夏になるとアイスコーヒーを飲みたくなる。ゴクゴクと飲みたいアイスコーヒーを淹れたくなる。だから春の陽気がひと段落すると、間もなくやって来る夏が待ち遠しくなる。
Kommentare