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スナックの渋い珈琲

執筆者の写真: 四国ルート88四国ルート88

年の瀬の気配を感じ始める頃、千歳烏山にある印刷会社でのアルバイトが始まった。


年賀状の準備をするシーズンだから2ヶ月弱の短期アルバイト。バイトの人は20人近くいたと思うけど仕事内容がみんなバラバラで、僕は都内各営業所に入った年賀状の注文書類を午前中の半日をかけて回収する仕事だったので、なかなか知り合いもできなかった。初めの頃は1人でお好み焼き屋に行ったりコンビニで買って来たりしていたけど、少しずつ話し相手ができてきた。


そんな中の1人、以前は音楽関係の仕事をしていて、あるシンガーソングライターを売り出したことがあるという30歳手前の人に連れていかれたランチの店、というか本来は夜に営業しているスナック。「スナックなんだけどランチしてるんだよ。しかもちょっと変わっててさ。」てなことを言われ、スナックって行ったこともないけど、昼休憩で時間は決まっているし、もう1人バイト仲間もいたので不安もあったけど行ってみた。ちなみにそのシンガーソングライターの曲は、90年代初めに大ヒットし結婚披露宴での定番曲にもなった。有線放送にひたすら電話でリクエストをして、じわじわと火がついてきたんだそうだ。


少し重たいドアを開けて入ると、店内はしっかり照明はついているのだけど真っ昼間に外から入ってくると暗く感じる。窓もないし。テレビドラマなどで見たことがあるのと同じ雰囲気で、どこに座ったらいいのかわからない、という感じでもなかった。年季の入っている小さめのソファーに腰掛けてみんな同じものを注文し、しばらくすると日替わりランチが運ばれてきた。

大きい皿には生姜焼きと野菜サラダが乗り、ライスとスープというごく普通のセットだったが、それだけでは終わらない。ここはスナックだからなのだろうけど、なんと缶ビールが並んで置かれたのには驚いた。昼間だから、という心遣いなのか、350mlの缶ではなく135mlほどの小さい缶だった。


いくら小さいからと言ったってバイトの昼休み、午後も仕事をするわけで、このくらいの量を飲んだところで仕事に影響はないだろうけど、よろしくない。真面目な性格なので、バイト中にビールを飲むなんてことはあり得ないし、もしばれてしまったら叱られてしまうし明日から働けなくなる。でも場の雰囲気で断るのも気まずいしなと困っていたら、他の二人は缶を開けて飲もうとしている。ビールはぬるくなったら美味しくなくなるし、でも空きっ腹にのむと酔いが回ってしまう。しかしそんなことを悩んでいる時間はないし、そこそこの協調性はあるので一緒に飲むことにした。みんなで「お疲れ様ー。」とって乾杯をしている。でもまだ半日の仕事があるし、なにに乾杯なのかがわからない。あとは赤い顔と匂いがばれないのを祈るだけだ。


とりあえず二口程度飲んで食べ始めた。普通に美味しい、ビールも美味い。食べ進めていると、年配の女性が近くに座って話しかけてきた。従業員かと思っていたら常連客のようで、カラオケで歌わないかと誘ってくる。だからバイトの昼休みだっての。アホかと思いながら話に付き合った。手にしているメモ帳に曲の番号が書いてあり、歌う順番も決まっているのだそうだ。というか今ビールを飲んでいること自体、昼と夜の順番を間違えているんじゃないのか。


食後にはアフターコーヒーが運ばれてきて、このコーヒーと水でアルコールが薄まればなと思いながら飲んだ。濃いくて渋いコーヒーだった。酸味が強い、というよりも渋いコーヒー。渋いのだけども美味しい珈琲。全く期待していなかったので、なんとも不覚にも美味しかった。


店を出て歩き出すと少し酔っていた。顔色にすぐ出てしまうので、午後からはなるべく部長の近くに行かないように人に近づかないように気をつけていた。その日以降そのスナックには、なんだかんだと言いながらも数回通った。昼にビールを飲むという少し遊んだ感じが面白ったし、コーヒーの意外な美味しさもポイントが高かった。ただその日の午後はハラハラするのだけど。


年末に向かってどんどん忙しくなった印刷会社でのアルバイト、どうやらバレることもなく仕事もこなせたようで、年末の最終日まで働くことができた。しかも後日給料が振り込まれた通帳を見て驚いた。なんと2万円もボーナスが入っていた。忙しくなるにつれ遅くまで働いたし、最終日はバイトとしての仕事はすべて終わらせ最後に会社を出た。だからなのだろうけど、部長がしっかりと見ていてくれたんだろうな。

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